前回までは20世紀後半のソ連のバレエについて紹介してきましたが、今日はソ連にとって冷戦のライバル国であったアメリカのバレエを紹介します。
全国で50を超えるバレエ団が誕生
アメリカ最大級のバレエ団といえば同じ東海岸にある、ニューヨーク・シティ・バレエ団とアメリカン・バレエ・シアターなのですが、名称の移り変わりがややこしいので整理すると、こんな感じになります。
- アメリカン・バレエ団(1935)→ニューヨーク・シティ・バレエ団(48)
- モルドキン・バレエ団(1937)→バレエ・シアター(39)→アメリカン・バレエ・シアター(57)
「バレエ・リュス編-11-」でも紹介したのでおさらいになりますが、1934年ジョージ・バランシンは資産家のリンカーン・カースティンと共にニューヨークにバレエ教室を作り、その生徒たちと共に翌年アメリカン・バレエ団の旗揚げ公演を行います。これが第2次大戦後にニューヨーク・シティ・バレエ団(NYCB)となります。
アメリカでバレエの普及を目指したバランシンは当初から生徒の人種構成に意識的で「16人のダンサーを中心に、半分が女性、半分が男性、半分を白人、半分を黒人」を目指していた。まだ人種差別の激しい時代だったので実現しなかったんだけど、バランシンはその後も黒人ダンサーの起用に積極的で、のちに紹介するアーサー・ミッチェルもその一人。
一方、バレエ・リュスやアンナ・パブロワのバレエ団で活躍したロシア生まれのダンサー、ミハイル・モルドキンが創設したモルドキン・バレエ団をモルドキンの弟子ルシア・チェーズ*が「バレエ・シアター」と改称し、さらに1957年にアメリカン・バレエ・シアター(ABT)と改称して、現在ニューヨーク・シティ・バレエ団と双璧をなす、米国内最大級のバレエ団となっています。
*1940年-1980年までアメリカン・バレエ・シアターの芸術監督を務める。次に継承した芸術監督はミハイル・バリシニコフ。
さらに、西海岸最大のサンフランシスコ・バレエ団(33)や60年代にはボストン・バレエ団(63)をはじめとする民間のバレエ団が次々と創設され、アメリカには全国50を超えるバレエ団が誕生します。その中でも特筆すべきは1969年に設立したバレエ団、ダンス・シアター・オブ・ハーレムです。
アフリカ系アメリカ人のためのバレエ
アーサー・ミッチェルはニューヨーク・シティ・バレエ団で初のアフリカ系アメリカ人としてデビューし、プリンシパルまで昇り詰めた人物です。1950-60年代のアメリカは人種間の差別撤廃を求める公民権運動が盛んな時期で、キング牧師が暗殺された翌年の1969年、アーサーは同じくニューヨーク・シティ・バレエ団出身のダンサー、カレル・シュックと共にニューヨークで黒人が多く住む街ハーレムに、アフリカ系アメリカ人のためのバレエ団、ダンス・シアター・オブ・ハーレムを創設します。
また、ダンス・シアター・オブ・ハーレムより約10年早く、1958年にはアフリカ系アメリカ人のモダン・ダンサー、アルヴィン・エイリーがアルヴィン・エイリー・アメリカン・ダンス・シアターを設立したことも記しておきます。
1932年よりニューヨークには芸術家や振付家による社会変革を目指すグループ、ニュー・ダンス・グループ(NDG)というコミュニティが存在し、そこには先述のアルヴィン・エイリーや、ハンヤ・ホルム、マーサ・グラハムカンパニーの振付家などが参加してしていました。
実はダンス・シアター・オブ・ハーレムの共同創設者であるカレル・シュックは、このNDGのメンバーでした。
アントニー・チューダー -心理バレエの産みの親-
少し時代を遡りますが1930年代、過去記事で紹介したジョージ・バランシンによるストーリーのない抽象バレエ「プロットレス・バレエ」の他に、もうひとつアメリカで誕生した新しいバレエがあります。
それが、アントニー・チューダーが開発した「心理バレエ」です。
心理バレエは伝統的なマイムやダンサーの表情に頼ることなく、ダンス・デコールの技法に従った身体の動きで登場人物の内面、心情を表現したものです。
これまでストーリーを語るための演出の一部としてしか扱われていなかった、人間の内面の葛藤や心情にフォーカスし、心の機微を主題としたバレエを作品にしたんだ。
アントニー・チューダーはイギリス出身で、20歳の頃バレエ・リュスの公演を見て突然バレエに興味を持ち、マリー・ランべールの元でバレエを学びます。1939年に渡米し、アメリカン・バレエ・シアターのダンサー兼振付家となります。
代表作には不本意な結婚を明日に控えた新郎新婦と、それぞれの愛人が月夜の庭で出会う初期作品《リラの園》(36)や、主人公の女性が恋する青年が、自分の妹と親密になるのに耐えきれず、隣家の不良に衝動的に身を任せてしまう《火の柱》(42)などがあります。
まとめ
アントニー・チューダーが20代でバレエに目覚めてから渡米するまでの1920年代から30年代は、伝統的な価値観から脱却し、変化の激しい社会から「自己」を取り戻そうとする芸術運動であるモダニズムがヨーロッパ中で大流行していました。
ジェームス・ジョイス*やT.S.エリオット**らによる内面世界を重視した文学作品や、表現主義、キュビズム、シュルレアリスムなど、画家の主観的な世界が描かれた抽象絵画などが次々と発表される中、バレエ・リュスもまたモダニズムの影響を強く受けた作品群を上演していました。アントニー・チューダーがアメリカで開発した「心理バレエ」にはこうしたモダニズムの影響が見られます***。
モダン・バレエもこのモダニズムの影響を受けているわけですが、この流れが1950-60年代のアフリカ系アメリカ人のためのバレエ団設立へと繋がるのが非常に興味深いところです。
*アイルランドの文豪。ギリシャ神話を現代風に翻案したモダニズムの代表的文学作品『ユリシーズ』の著者。
**アメリカのモダニズムを代表する文豪。代表作は長詩『荒地』
***チューダーがモダニズムの影響について語った文献は見つかなかったが、モダニズム研究を包括した世界最大級のオンラインプラットフォーム”Routledge Encyclopedia of Modernism“にてアントニー・チューダーが紹介されている。
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