バレエの歴史 バレエ・リュス編 -2-

ライムライトの図書館
この記事は約5分で読めます。

前回はバレエ・リュスが誕生する20世紀初頭の世界状況をお伝えしましたが、今回からいよいよバレエ・リュスの紹介に入ります。

過去のブログでもバレエ・リュスについては触れていますが、今回はより詳しく紹介していきます。

「空前絶後の最強バレエ団」バレエ・リュス

「バレエ・リュス」の直訳は「ロシアのバレエ団」です。

じつは20世紀前半には「バレエ・リュス」を名乗るバレエ団がいくつかあるのですが、今回ご紹介するのは1909年から1929年までの間、ロシア人プロデューサー、セルゲイ・ディアギレフを主宰として欧米を巡業した最初のバレエ・リュスについてです。

バレエ・リュスが「空前絶後の最強バレエ団」と呼ばれている理由は、このバレエ団のもとに当時ヨーロッパで活躍していた各ジャンルの芸術家たちが集まり、西洋のアートシーンに巨大な足跡を残したことによります。

「ダンス」アンリ・マティス – MoMA, PD-US,
ココ・シャネル(1883-1971) -Fashion Wiki-

ダンサーや振付家はもちろん、音楽ではドビュッシー、ラベル、ストラビンスキーなど、美術ではシャガールの師匠であるレオン・バクスト、フォービズムの代表格アンリ・マティス、キュビズムのパブロ・ピカソ、衣装ではココ・シャネル、台本は詩人のジャン・コクトーなど、作品は知らなくても名前は聞いたことのあるような、そうそうたるメンバー。

海野敏(著)「バレエの世界史」ではバレエ・リュスで創作した芸術家27人の一覧があるよ。ディアギレフ亡き後に再開した「バレエ・リュス モンテカルロ」まで入れるとシャガールやダリなど、さらに多くの芸術家たちが関わってくる。

これほど多くの人材を集められたのは、興行主であるディアギレフの類まれな芸術的センスと、強い指導力によるものでした。

セルゲイ・ディアギレフ

セルゲイ・ディアギレフは1872年、ロシア貴族の子として生まれます。当時の首都ペテルブルクで法学を勉強しましたが、途中から音楽学校へ入学し、声楽家、作曲家を目指します。その後、プロデューサーに転向して才能が開花。ロシアの前衛芸術家たちの中心的な存在となり、仲間達とともに雑誌「芸術世界」を発行します。

その後、1899年から3年間、ペテルブルク帝室劇場の支配人補佐を務めますが、劇場側との不和で解雇されてしまいます。

まもなくディアギレフは民族主義的な志向に導かれて西欧にロシアの芸術を紹介する活動を開始します。1906年、パリでロシア美術の大規模な展覧会を開き、翌年にはパリ・オペラ座でロシア音楽を紹介する演奏会を開き、ラフマニノフ*が自作のピアノ協奏曲を披露します。

*セルゲイ・ラフマニノフは、ロシアの作曲家・ピアニスト。情熱的で感情豊かな作品で国際的に評価された。

1908年にはムソルグスキー*のオペラ「ボリス・ドゥノフ」の全幕上映を実現し、1909年パリのシャトレ座で、バレエ・リュスの旗揚げ公演が行われました。

*モデスト・ムソルグスキーはロシアの作曲家で「展覧会の絵」などの楽曲で知られる。ロマン主義音楽の重要な作曲家の一人。

セルゲイ・ディアギレフ(1872-1929)

この公演は、当時女性ダンサーが中心だったフランスのバレエ界にあって、男性ダンサーの勇壮な踊りがパリの観客の度肝を抜きます。さらに、女性ダンサーのクラシックで優美な踊りも、貴族的な文化を廃してバレエが大衆化していたパリで喝采を浴びます。

1910年までは帝室劇場の休暇中に選抜ダンサーを集めて公演を行っていましたが、その後は帝室バレエ団の保守的な体質に不満を持つダンサーを集めて、年間を通して公演できる自らのバレエ団を発足させます。世界初の民間巡業バレエ団「バレエ・リュス」の誕生です。

ディアギレフの功績

バレエ団主催者のディアギレフは創作の方針において二つの点で画期的でした。

  • 舞踊と同等に音楽、美術の芸術性の高さを重視した。
  • 同じ作品を繰り返し上演せず、毎年新しい趣向の新作を上演しようとした

「舞踊と同等」と言うことが何を意味するかと言うと、バレエを踊りを鑑賞するものから他ジャンルの芸術家の創作を集結させた「総合舞台芸術」へと進化させたことを意味します。

画像は「パレード」と言うサーカスを舞台にした演目の衣装をピカソがデザインしたもの。踊り手が中心のバレエだったら、動きにくくてこんなデザインは生まれて来ない。

「モダンアートや現代美術はよく分からない」と敬遠される方もいますが、少なくともこの当時、バレエ・リュスが芸術の前衛であり続けることと、エンターテイメントであることは矛盾していなかったのです。

ディアギレフはこのような功績の裏側で、同性愛による振付家との確執など、闇の側面もありますが、少なくとも古い芸術を刷新し続けようとする姿勢は、当時流行したモダニズムのあり方そのものと符合します。

バレエ・リュスの作品「パレード」のためにピカソがデザインした衣装(1917)
By Pablo PicassoPD-US,

まとめ

その後、バレエ・リュスはディアギレフが急死する1929年まで、パリ、ロンドン、モンテカルロを中心に欧米での公演を続けました。

次回は初期のバレエ・リュスを支えたスターダンサーたちを紹介します。


最後にお知らせをさせてください。スタジオアルマ第3回公演「ラヤの夢」の映像配信がはじまっています。僕が6つのアングルから撮影した映像を編集した、舞台とは一味違った魅力の詰まった映像作品です。

どんな作品なのか見ないと判断できない方もいらっしゃると思いますので、冒頭シーンを無料で公開しています。興味をお持ちの方はぜひ、ご覧ください。

配信映像は9月25日の深夜0時まで購入できます。配信は10月1日いっぱいまでご覧になれます。

配信映像チケットの購入はコチラ

 


最後までお読みいただき、有難うございます!

ブログは毎週、火、土、YouTubeチャンネル「ライムライトのつぶやき」は
水、金の毎朝7時に更新しています。

Xをフォロー、もしくはfacebookで「いいね」を押して頂けると、

ブログを更新したタイミングでX(旧Twitter)からお知らせします。

皆さんからのご意見・ご感想もお待ちしています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました