バレエの歴史 上海バレエ・リュス-4-

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1946年、上海バレエ・リュスは公演を最後に活動を停止しました。
けれども、その歴史はそこで終わったわけではありません。

戦闘が終わり、上海租界という枠組み自体が解体され、
上海バレエ・リュスのメンバーも各地へ散っていきました。
彼らが上海で培ったレパートリー、楽曲、技術や人脈は、
それぞれ別の土地で生き続けていくことになります。

中国、フランス、ロシア、日本といった多国籍文化が交わる国際都市、上海。

今回は、上海バレエ・リュスを中心に、上海という都市が戦後の世界へ残したものを
見ていきます。

戦後の上海バレエ・リュスの影響

まずは、上海バレエ・リュスの主要メンバーが、その後の歴史に残した影響について。

戦後、ライシャム劇場は閉鎖され、団員たちは上海を離れ、それぞれ別の土地へ向かいました。
上海バレエ・リュスの影響は、建物や組織ではなく、人を通じて各地へ伝播していきました。

ここでは、上海バレエ・リュスの各地で始まる第二の歴史として小牧正英とオードリー・キング
戦後の足跡を紹介します。

小牧正英が持ち帰ったもの

上海バレエ・リュスのメンバーで、戦後アジアのバレエ史に大きな影響を残した人物が小牧正英です。

小牧は上海バレエ・リュスで唯一の日本人ダンサーとして活動し、戦後1946年に日本へ帰国します。
そして日本の舞踊家たちと共に東京バレエ団を立ち上げ、日本ではじめての《白鳥の湖》全幕上演実現します。
当初は17日間予定されていた公演は、空前の大盛況で22日間に延長され、記録的なロングラン公演となります。

この公演で《白鳥の湖》は日本におけるバレエの代名詞となり、一般大衆のバレエの認知を獲得するための、大きな出発点となりました。

小牧は、この公演で振付とロットバルト役で出演もしています。

戦前に満州へ渡り、マリインスキー劇場の伝統を引く教師から正統なロシア・バレエを学び、
上海バレエ・リュスで、《白鳥の湖》全幕の出演経験があった小牧の存在なくして、
この公演は成立しませんでした。

また、小牧が上海から持ち帰ったのは、踊りの技術だけではありません。
小牧は《白鳥の湖》全幕のピアノ・スコアを持ち帰っていたのです。

踊り手と振付家がいても、音楽がなければ公演はできません。小牧が持ち帰ったこのピアノ・スコアを基に、指揮者の山田一雄がオーケストラとしてまとめあげ、はじめて全幕公演が可能になったのです。
さらに、1965年の日韓国交正常化の直後、小牧はソウルへ招聘され、1967年に韓国において同国初となる本格的な《白鳥の湖》全幕上演を成功に導きます。

山田一雄(1912-1991)


この上演は、韓国における本格的なクラシック・バレエ文化の萌芽となり、
その後の韓国国立バレエ団の設立や、ソウルオリンピック期における旧ソ連ボリショイ・バレエ団の
韓国招聘といった、冷戦下の国際文化交流の土台を築くことになります。

もちろん、戦後のバレエ史は小牧一人で作られたわけではありません。
東京バレエ団の参加者だけを見ても、戦後のバレエ史に大きな影響を与えた人たちが名前を連ねています。
しかし、少なくとも小牧正英が日本や韓国に与えた影響だけを見ても、
上海バレエ・リュスの活動はもっと高く評価されてよいと思います。

オードリー・キングがつないだ次世代の育成

もう一人の重要人物が、オードリー・キングです。

彼女は上海バレエ・リュスのプリマの一人であり、小牧正英が通っていた「ベイトマン=キング・ダンス学校」の主宰者でもありました。

ここで注目したいのは、オードリー・キングが舞台のスターであるだけでなく、
教育者でもあったことです。

ロシア移民が主な構成メンバーを占める上海バレエ・リュスにあって、
キングはチェケッティ・メソッド*の最高位と、ロイヤル・アカデミー・オブ・ダンス(RAD)**の
両方式を修めた、ヨーロッパのバレエ技術に精通した教育者だったのです。

*伊出身の巨匠エンリコ・チェケッティが確立したバレエ指導法。
**英国発祥の世界最大級のバレエ教育機関。段階的カリキュラムと、国際資格を得られる厳格な試験制度が特徴。

小牧は上海でロシアのバレエと、ヨーロッパのバレエの両方を教わっていたことになる。ということは、小牧が振り付けた《白鳥の湖》は、そのハイブリットバージョンってことになるね。

戦時中には敵性外国人として日本軍により収容される経験をしたキングですが、
戦後は夫とともに上海を離れ、南アフリカに渡ります。

南アフリカでキングは、厳しい人種隔離政策(アパルトヘイト)の中、「バレエを通じた文化的な架け橋」になるべく、指導者や振付家として活躍しました。

1977年には、さまざまな人種的・文化的背景を持つダンサーで構成される「ヨハネスブルグ・ユース・バレエ・カンパニー」を創設し、後の南アフリカのバレエ界を支える「若手ダンサーの供給源」となります。

上海バレエ・リュスの遺産は、オードリー・キングを通じて、教育のネットワークとして南アフリカに残っていきました。

同時期の上海が産んだ、世界的バレエ・ダンサー

上海バレエ・リュスからもう少し視野を広げて、同時期の上海という都市が世界のバレエに与えた影響を見てみたいと思います。

上海が生み出したダンサーで、その象徴となる人物がマーゴ・フォンテインです。
彼女は英国ロイヤル・バレエの顔として活躍し、1961年以降は亡命したルドルフ・ヌレエフとの
名コンビで世界的な人気を獲得します。

そんな彼女は、14歳になるまで上海でバレエを学んでいました。

上海では、ロシア系亡命教師ジョージ・ゴンチャロフから学んでおり、この時期の経験が後のロシア・バレエ志向にもつながったとされています。

そして戦後の大きな転機は、奇しくも日本で《白鳥の湖》が上演されたのと同じ、1946年です。
フォンテインが所属する、サドラーズ・ウェルズ・バレエ(のちのロイヤル・バレエ団)が
戦時中は閉鎖されていたコヴェント・ガーデンのロイヤル・オペラ・ハウスに入り、
眠れる森の美女』を上演します。

再開の象徴となったこの公演で、フォンテインは主役のオーロラ姫を踊りました。
この作品は彼女自身の代表作になると同時に、カンパニーの看板演目にもなっていきます。

日本におけるバレエの代名詞が《白鳥の湖》になったように、イギリス人にとっては《眠れる森の美女》がバレエの代名詞になった。国ごとの一番有名なバレエが何かを調べた音声配信もあるので、こちらもチェック!

まとめ

ここまで戦後の影響を見てくると、上海バレエ・リュスを本場バレエ・リュスの亜流として
片づけるには、あまりにも影響が大きいことがわかります。

小牧正英は、その経験とピアノ・スコアを持ち帰り、戦後の日本および韓国の
クラシック・バレエの基盤形成に大きな役割を果たした。

オードリー・キングは南アフリカでバレエ文化を広め、次世代の人材を生み出した。

さらに、同時期の上海という都市は、マーゴ・フォンテインのような、
世界バレエ史につながる人材を育てる環境もあった。

そう考えると、上海バレエ・リュスの活動、ひいては上海という街自体が
アジアにおける国際バレエ文化の交差点として、もっと高く評価されてよいはずです。

さて、この連載も、ここで一区切りです。
けれども、上海をめぐる舞踊史そのものは、ここで終わりません。

今回の連載では扱いきれなかったもうひとつの大きな流れ――
中国現代舞踊史の中で、上海という都市がどのような役割を果たしたのか
については、また別の機会にあらためて見ていきたいと思います。

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