バレエの歴史 上海バレエ・リュス-3-

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前回は、上海バレエ・リュスが本家バレエ・リュスの遺産をどこまで受け継いでいたのかを見てきました。

では、その団体は戦争の中でどうなったのでしょうか。

今回のテーマは、日本占領下の上海で、上海バレエ・リュスがいかにして活動を続けることができたのかです。

外国文化への取締が強化される中、バレエがなぜこの都市では消えなかったのか。 その背景には、国籍、国際政治、占領政策、そして音楽家や舞踊家たちの複雑な立場が重なっていました。

なお、今回の中心人物の一人として登場する小牧正英は、上海バレエ・リュスで唯一の日本人ダンサーでした。小牧については、先日の音声配信でその名前の由来や上海に渡るまでの経緯を詳しく話しています。

今回は小牧個人のドラマではなく、彼がいた上海バレエ・リュスという団体の、戦中から戦後にかけての活動を紹介します。

戦争は、上海バレエ・リュスに何をもたらしたのか

1941年12月、日本軍の共同租界進駐によって上海全体の空気は一変します。

1942年に入ると、軍事接収や文化統制が本格化し、フランス租界を拠点としていた上海バレエ・リュスの内部にも、敵・味方の線がはっきりと引かれていきます。

まずは、英国人ダンサーのオードリー・キング

彼女は上海バレエ・リュスのプリマであり、同時に小牧正英が入ったバレエ・スクールの主宰者でもありました。つまり、上海バレエ・リュスの舞台と教育の両方を支えていた人物でした。

ところが、日本軍の占領後、オードリー・キングは敵性外国人として収容所に送還されます。

音楽面ではシリーズ第1回上海工部局交響楽団(SMO)を育て上げたイタリア人指揮者マリオ・パーチを紹介しました。彼が築いたこのオーケストラは、アジア最高水準と呼ばれる存在でした。

ところが日本軍はこの楽団を接収し、「上海交響楽団」と改称します。
この時点でパーチの時代は事実上終わり、その音楽的基盤は政治的な形で日本に接収されました。

このように、敵対国出身者やユダヤ人の出演者・スタッフは次々と帰国、もしくは収容所へと送還されていき、上海バレエ・リュスは一時的に活動を中止せざるをえない状況に追い込まれます

一方で、同じ舞台に立っていたロシア系移民や日本人は、別の扱いを受けました。

敵国人と中立のあいだ ― ロシア系移民はどう扱われたのか

ここで重要になるのが、ロシア系移民の特殊な立場です。

日本では、ソ連は第二次世界大戦中ずっと敵国だったように感じられがちですが、
少なくとも終戦間際にソ連が日ソ中立条約を破棄するまでは、形式上は中立国でした。

しかも上海のロシア系移民たちは、単純な「ソ連国民」ではありません。
多くはロシア革命後に亡命してきた白系ロシア人であり、なかにはソ連の体制に反感を持つ者や、無国籍者として暮らしていた人々もいました。

そのため、彼らは英国人やアメリカ人のような明確な敵性外国人とは異なる位置に置かれました。日本側から見ても、彼らは反ソ・反共の文脈で利用価値を持ちうる存在でもあったのです。

つまり、ロシア人だったから残れたのではなく、日ソ関係と亡命者という身分の特殊性が、
彼らを残したのです。

もし上海バレエ・リュスが英国人中心の団体だったなら、もっと早い段階で活動停止に追い込まれていたかもしれません。しかし実際には、団体の基盤を支えていたのはロシア系亡命者たちでした。

だからこそ、日本占領下でも、完全に解体されずに済んだ面があったのです。

なぜ“敵国文化”のバレエが生き残れたのか

ロシア系亡命者に支えられる上海バレエ・リュスが、完全に敵国文化とは言い切れない存在だったことに加えて、「バレエ」という表現形式自体が、フランス革命も、ロシア革命も、文化大革命も
生き残る「為政者にとっての価値」を持っていたことも重要です。

日本の占領当局にとって、上海の高度な欧州文化は単なる贅沢ではありませんでした。
むしろそれは、日本が「野蛮な武力国家」ではなく、「高度な欧州文化を理解し保護する文明国」であることを示すための文化工作の材料でもありました。オーケストラやバレエは、その象徴だったのです。

つまり、バレエは「敵国文化」であると同時に、日本の文化政策の優秀さを見せるための舞台でもありました。

このとき、小牧正英という日本人は為政者にとって、非常に都合が良い存在でした。
彼は日本人でありながら、ハルビンで正統なロシア・バレエの訓練を受け、上海バレエ・リュスの内部で活動していた。ロシアの伝統を受け継ぐ団体を、日本人が前面に立って支え、しかも主役まで踊る実力を兼ね備えていました。

これは、日本側にとって強いプロパガンダ効果を持っていました。

さらに、オードリー・キング収容後のバレエ学校を小牧が引き継いだことも重要です。
ここで小牧は、単なる一ダンサーではなく、日本軍管理下で団体と教育を継続させる上海バレエ・リュスの「」になっていきます。

つまり、バレエそのものが残されたことと、小牧正英が前面化したことは、別々の話ではありません。

日本占領下の上海でバレエを残すには、日本人である小牧を“顔”にすることが、もっとも合理的だったのです。

もちろん、そこに小牧本人の意思や努力がなかったわけではありません。ただ、ここで重要なのは、美談としてだけ捉えないことです。彼が前面に立てたのは、才能があったことに加えて、日本人であることが政治的に意味を持ったからでもありました。

上海バレエ・リュスを支えた日本人たち

上海バレエ・リュスの活動を支えた日本人は小牧だけではありません。

マリオ・パーチの退任後、副指揮者だったアリゴ・フォアが上海交響楽団の首席指揮者を務め、翌年から日本人指揮者の朝比奈隆が赴任し常任指揮者を務め、フォアと指揮を分担します。

朝比奈は日本軍統治下の上海で、この高水準の楽団を率い、
上海バレエ・リュスの公演も数多く指揮しました。

朝比奈自身は、小牧の踊りに深く感動し、その重要性を高く評価していました。そしてこの上海での共演体験は、戦後、小牧バレエ団と朝比奈の協働にもつながっていきます。

つまりここで起きていたのは、戦時下の一時的な共演ではなく、戦後日本のバレエと音楽の連携の原型でもあったわけです。

朝比奈隆(1908-2001)

また、戦前に活動資金を提供していた英国工部局やフランス租界の各銀行の代わりに、川喜田長政の東和映画(現・東宝東和映画)をはじめとした日本人出資者たちが活動資金を提供したことで、上海バレエ・リュスは活動を再開することができました。

この意味で、日本人音楽家や文化人、出資者もまた、占領都市の文化政策の中でこの団体を存続させる役割を果たしていたのです。

戦後 ― 上海バレエ・リュスはどのように幕を閉じたのか

1945年8月、日本の敗戦によって租界は消滅し、上海を支えていた占領体制そのものが崩れます。
日本の文化工作や統治の枠組みの中で、ある意味では延命していた上海バレエ・リュスも、
ここで急速に解体へ向かうことになりました。

本拠地だったライシャム劇場は閉鎖され、団体の活動基盤は大きく揺らぎます。
収容所から解放されたオードリー・キングは1946年3月に帰国し、彼女のスクールも閉じられました。ロシア系の団員たちも、戦後の政情不安の中で上海を離れていきます。

そして、上海バレエ・リュスは1946年の公演を最後に活動を停止します。

また、敗戦者となった小牧はこの最終公演には出演せず、しばらく上海に残り、
上海市立実験演劇学校」で講師を務めましたが、1946年4月に日本へ帰国しました。

まとめ

ここまで見てくると、上海バレエ・リュスは奇跡的に生き残ったのではなく、
戦時下の条件に合わせて再編され、戦後の都市状況の変化とともに静かに幕を閉じた
団体だったようです。

そこには、芸術を守ろうとする人々の意志と、日本の占領政策や文化工作の思惑が複雑に重なっていました。

そして重要なのは、この経験がここで終わらなかったことです。

次回は、上海バレエ・リュスが世界に与えた影響と、その中心人物たちを見ていきたいと
思います。

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