ひさしぶりのバレエの歴史シリーズです。
今回のテーマは「上海バレエ・リュス」。
きっかけは舞踊作家協会のお仕事で雑賀淑子さんの対談を配信することになり、
雑賀さんのお師匠さんがかつて上海バレエ・リュスに所属していた
小牧正英さんだったことを知ってからです。
対談の詳細についてはコチラ。
バレエ・リュスについては過去のシリーズでかなり詳しくご紹介していますが、
上海バレエ・リュスについては、詳しく調べたことがありませんでした。
「空前絶後のバレエ団」と呼ばれたバレエ・リュス。
はたして上海バレエ・リュスはその直系なのか、
それとも名前を借りただけの無関係な団体なのか?
まず今回は、舞台となった20世紀初頭の上海について、時代背景をご紹介していきます。
なぜ、舞台は上海だったのか
「バレエ・リュス」と聞くと、多くの人がまず思い浮かべるのは、20世紀初頭のパリです。ディアギレフ率いるバレエ・リュスは、単に優れたダンサーを集めたバレエ団ではなく、音楽、美術、衣装、振付を高い次元で結びつけた総合芸術として、
近代バレエの歴史を大きく塗り替えました。
けれども、1929年にディアギレフが亡くなると、
その運動は組織としてはいったん終焉を迎えます。
その後、バレエ・リュスはヨーロッパ各地、そして思いがけない土地へと拡散していきます。

そのひとつが、1930年代から40年代にかけての上海でした。
では、なぜ上海だったのでしょうか。
「東洋のパリ」と呼ばれた都市
当時の上海は、しばしば「東洋のパリ」と
呼ばれました。
外国人が治外法権を持って中国の土地を
長期間借り受けした「租界」と呼ばれる
外国人居留地には、多くの人々が移り住み、
20世紀前半のアジアにおいて、
もっとも国際色の濃い都市の一つでした。
とくにフランスは、複数の国が共同で運営する「共同租界」とはべつに、フランスが単独で管理した「フランス租界」を持っていました。

そこには欧米の商人、外交官、知識人だけでなく、戦争や革命によって祖国を追われた
多くの亡命者たちも流れ込んでいました。
とりわけ1917年のロシア革命以後、大量のロシア人たちが上海へ移り住み、この都市の文化的な輪郭を大きく変えていきます。
重要なのは、彼らが単なる難民ではなかったことです。
上海に流れ着いた亡命ロシア人のなかには、マリインスキー劇場やボリショイ劇場の教育を受けた舞踊家、音楽家、美術家が数多く含まれていました。
帝政ロシアの元で高度な芸術教育を受けた人々が、上海で再び活動の場を探したのです。
このロシア人たちの存在が、上海を特別な場所にしました。
フランス租界には彼らの居住区が形成され、ロシア料理店、書店、音楽教室、バレエ学校などが
並びます。
まずは亡命ロシア人を中心に文化と教育のネットワークが築かれ、
やがて上海に暮らす他の人々にも広がっていきました。
フランス租界と亡命ロシア人。
バレエの中心地であるこの二つの国の文化が、上海で交錯したのです。
上海には「上演できる環境」があった
もう一つ大きかったのは、上海が単に人材の集まる街だっただけでなく、
バレエを本格的に上演できる環境があったことです。

N509FZ – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=83958835による
まず、踊りに不可欠な音楽の演奏は、アジア随一の演奏水準を誇る上海工部局交響楽団がありました。イタリア人指揮者のマリオ・パーチのもとで鍛えられたこのオーケストラは、複雑なバレエ音楽を舞台で支えることのできる、
きわめて重要な存在でした。
さらに、1931年に竣工した蘭心大戯院(ライセウムシアター)は、西欧式の最新劇場設備を備え、豪華な舞台美術や大規模な上演に対応できる環境を整えていました。
また、バレエのような大規模な舞台芸術が成立するには、人やインフラを支える、都市そのものの力が必要です。
アジア最大の貿易港*として発展した上海は、国内外から莫大な資金が流れ込んでいました。
そうした資金は上海を金融センター化し、地価の上昇と都市整備を呼び、さらに資本を呼び込むという好循環を生み出していきます。
*当時アジア最大だっただけでなく、2025年現在において、上海港は世界最大のコンテナ港を誇る。(JETRO)
華やかさの裏側にあったもの
ただし、ここで上海を単純に「夢の国」のように描いてしまうと、歴史の輪郭がぼやけます。
国際都市上海は、誰にとっても平等に華やかな都市だったわけではありません。
租界は自由で開かれた文化空間でもありましたが、
それは同時に半植民地的な秩序の上に築かれたものでした。
華やかな「モダン上海」は、膨大な中国人の労働と移住によって支えられていたのです。
とくに1932年と1937年の日中の軍事衝突、いわゆる上海事変の影響により難民が増え、
アヘンの流入もあってスラム街が拡大しました。
そのため、バレエや西洋音楽の中国人への浸透は、都市の中間層や知識人層を中心に、
観客・担い手・スタッフとして時間をかけて徐々に広がっていきました。
このことは、戦後の中国における西洋舞踊の発展を考えるうえでも重要です。
上海バレエ・リュスは、中国に住む外国人の閉じた文化ではなく、
やがて中国側へも接続していく、ひとつの入口になっていったからです。
まとめ
今回のシリーズでは、「文化の継承」を大きなテーマとして扱っていこうと思います。
上海バレエ・リュスの戦前から戦中の活動と、
戦後解散した後に、中国をはじめ世界にどんな影響を与えたのか。
「継承」は、バレエの訓練を受けずに両親のバレエ教室を継ぐことになった、
僕にとっても人ごとではありません。
ディアギレフ亡き後の世界で、
「バレエ・リュス」の遺産を遠いアジアの地でどう受け継いだのか。
上海には、フランス租界をはじめとする国際都市としての土壌があり、
ロシア帝室バレエを知る亡命者たちがいて、本格的な音楽と劇場のインフラがありました。
さらに、その背景には中国人の暮らしと労働がありました。
上海バレエ・リュスは、そうした条件が重なって生まれた団体でした。
今回は、上海バレエ・リュスそのものの詳しい活動には踏み込まず、
まずはその舞台となった都市の時代背景を見てきました。
次回は、いよいよ上海バレエ・リュスの組織形成と初期の上演活動に入っていきます。
ご意見・ご感想があればぜひ聞かせてください!
最後までお読みいただき、有難うございます!
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