前回は、上海バレエ・リュスが生まれた街、
1930年代から40年代の上海の時代背景を紹介しました。
では、その上海で活動した「上海バレエ・リュス」とは、
いったいどのような団体だったのでしょうか。
ここで気になってくるのは、その名前です。
20世紀初頭、パリでバレエの歴史を大きく変えた伝説的なバレエ団「バレエ・リュス」。
上海の団体は、その名前を受け継いだだけの別団体だったのか。
それとも、本当に何らかのかたちで、その流れを継承していたのか。
今回は、上海バレエ・リュスの成立と初期活動をたどりながら、
この問いに近づいていきたいと思います。
上海バレエ・リュスは、どのように始まったのか
前回の記事でご紹介した通り、当時の上海に巨大なロシア人コミュニティが存在していました。
そこには、祖国で高度な芸術教育を受けた舞踊家、音楽家、美術家たちも多く含まれていました。
そのような背景のもと、1934年11月、上海のダンサーや振付家たちが一堂に会し、結束して新たなバレエ団を創設することを宣言します。ここで生まれたのが、のちに「上海バレエ・リュス」と呼ばれていく団体です。
その中心には二人のバレエ・マスターがいました。
一人は、ニコライ・ソコーリスキーです。彼はロシア・サンクトペテルブルクの帝国バレエ学校で受けた厳格なクラシック・バレエの教育を務めあと、ロシア革命で西欧を経て上海へ至ったとされる人物です。
小牧正英さんの著書*にはマリインスキー劇場出身という記述もありますが、客観的な証拠は見つかりませんでした。
*小牧正英「ぺとルゥシュカの独白」三恵書房 P127-128
もう一人が、結成時の発起人としてソコーリスキーとともに名を連ね、初代バレエマスターを務めたE.エリーロフです。パリから上海へ亡命し、パリ時代にはクロチルド・サハロフといった、バレエ・リュスと同時代に活躍した別系統のダンサーと交流があったようです。
どちらも本人や上海バレエ・リュスダンサーの証言として、
過去に直接バレエ・リュスと関わっていたという記述がありますが、
実際に関係していたことを示す証拠があるかどうかを調べてみました。
ソコーリスキーとエリーロフ ― 上海バレエ・リュスを形づくった二つの方向性
まず、この二人のバレエ・マスターの下、上海バレエ・リュスがどんな作品を上演していったのかを見ていきます。
上海バレエ・リュスの上演作品は、大きく三つに分けることができます。
- 《白鳥の湖》や《コッペリア》のような伝統的なクラシック・バレエ
- ミハイル・フォーキン振付作を中心とした、初期バレエ・リュス作品
- 上海バレエ・リュスのオリジナル作品
これらの作品群において、ソコーリスキーは主にクラシック・バレエとバレエ・リュス系の作品を担っていました。 彼の土台にあったのは、帝政ロシア由来の厳格なクラシック教育です。
しかしそれだけではありません。
ロシア革命亡命後のソコーリスキーは、あの、アンナ・パブロワの一座でダンサーとして活動していたのです。
アンナ・パブロワは20世紀初頭を代表するバレリーナであり、バレエが一般化する前の日本で公演し、バレエがひろまるきっかけを作った人物です。
彼女の代表作《瀕死の白鳥》はバレエ・リュス参加前のミハイル・フォーキンの振付であり、初期バレエ・リュスの看板ダンサーでした。
つまりソコーリスキーの背後には、ロシア帝室バレエの伝統だけでなく、
パブロワを通じて初期フォーキン作品へつながる回路もあったことになります。
実際、上海バレエ・リュスでフォーキン作品が多く上演されていたことは、この経歴を考えると理解しやすくなります。
もっとも、パブロワ一座の上演品目はクラシック・バレエが中心で、ソコーリスキー自身は「自分はフォーキンの弟子である」という趣旨の発言をしています。
ただ、その発言を直接裏づける十分な資料は、確認できませんでした。
したがって、彼をそのまま「フォーキンの弟子」と断定するよりも、パブロワ一座での活動を通じて、フォーキン作品の系譜に接していた可能性が高い人物と位置づける方が、現段階では正確かもしれません。
一方、E.エリーロフは、別の方向から劇団に新しさを持ち込んでいました。
エリーロフが上海バレエ・リュスの旗揚げ公演で、上演したのは《都市の仮面》と題された、モダニズム色の強いバレエ・リュスとは関係のないオリジナル作品でした。
彼はこの初公演を「アンナ・パブロワとクロチルド・サハロフに捧げる公演」と宣言しており、初期の上海バレエ・リュスの作品には、本場バレエ・リュスとは別のモダンな舞台感覚が反映されてたことが分かります。

つまり、初期の上海バレエ・リュスには、 ソコーリスキーが担うクラシック・バレエとバレエ・リュス系作品、 そしてE.エリーロフが担うモダンダンスをベースにしたオリジナル作品、 という二つの方向性が並んでいたのです。
ただし、この並立は長くは続きません。 次第に劇団のレパートリーは、ソコーリスキーの振付作品が多数を占めるようになっていきます。
名前に隠された秘密 ― なぜ単数形の”Russe”なのか
次に「上海バレエ・リュス」という名前の正当性について調べました。
当時の公演記録を見ると”Le Ballet Russe“とだけ表記されており、
頭に「上海」の字は付いていませんでした。
これは、本場のバレエ・リュスと混同しないように後から
「上海バレエ・リュス」と表記するのようになったのだと思います。
もともと、バレエ・リュスの「Russe」という語は、フランス語で「ロシア」を意味し、”Ballet Russe”は「ロシアから来たバレエ」「ロシア風のバレエ」全般を指す言葉でした。
まず注目したいのは、本家パリのバレエ・リュスが”Ballets russes“と複数形を使ったことです。
本家バレエ・リュスがパリで旗揚げした際は、この「ロシアから来たバレエ作品群」が新鮮味とブランド力を持って受け入れられたことで、ディアギレフはあえてフランスで”Ballets Russes”という複数形の団体名を使ったのです。
ディアギレフの没後、この”Ballets Russes”という名称は強いブランド性を持ち、
後継団体はその系譜をどう名乗るかをめぐって競合しました。
とくに有名なのが、バレエ・リュス・ド・モンテカルロと、バレエ・リュス・ド・コロネル・ド・バジルの争いです。彼らは、どちらがより正統にディアギレフの遺産を継いでいるのかをめぐって、芸術的にも法的にも争うことになりました。
この視点から見ると、上海バレエ・リュスが単数形の「Le Ballet Russe」と名乗ったことは、
- 法廷闘争に巻き込まれにくい
- 地理的にヨーロッパと離れている
- ディアギレフの直系ではないが強いブランド力を持つ
という戦略的な位置付けをもちつつ、ディアギレフがロシアからフランスに渡り、時代を刷新したように、上海の地でロシア人がバレエを通じて自らのアイデンティティを確立しようとする意志が込められた呼称と言えるのではないでしょうか。
上海の上演は、どの程度“本物”だったのか
しかし、ここで次の問いが生まれます。
彼らが上海で上演していた作品は、どの程度“本場”に近いものだったのか。
バレエ団の内部にいた人々が「自分たちは本場の踊りを知っている」と語ったとしても、それだけでは十分ではありません。「バレエ・リュス」という大きな看板を掲げていた以上、その自己認識と実際の上演水準は分けて考える必要があります。
そこで重要になってくるのが、外部からの評価です。
バレエ団の拠点だったライセウムシアターはフランス租界内にあり、
本家のバレエ・リュスを知る知識人も移り住んでいました。
ここで注目されるのが、フランス人批評家シャルル・グロボワの存在です。
ロボワは、バレエ・リュス結成時にパリの名門学校で古典教育と音楽研究をし、
第一次世界大戦参加後、1918年に上海へ渡り、フランス租界の文化的な中枢にいた人物でした。
言い換えれば彼は、上海の上演を「本場を知る目」で評論することのできた人物だったのです。
グロボワは、1939年に上海バレエ・リュスが上演した《金鶏》を、フォーキン振付で本家バレエ・リュスが上演した同作と比べ、「劇場が狭すぎる」と評したり、1941年上演のマシーン原振付《予兆》が「オリジナルからかけ離れた」振付であったと書いていることから、本家の踊りを知っていたことが推測されます。
また、1944年に上海で上演されたフォーキン原振付《ペトルーシュカ》、ニジンスキー原振付《牧神の午後》については高く評価する言葉を残しています。
ここで大事なのは、その賞賛の内容そのものではなく、本場のバレエ・リュスを知る立場の批評家が、上海の上演に一定の芸術的水準を認めていたという事実です。
「i.Erler」というダンサーの謎
ここで、もうひとつ気になる人物について触れておきたいと思います。
現時点で、ソコーリスキーがフォーキンの弟子であり、バレエ・リュスに参加していたという客観的な事実は見つかりませんでした。
一方、E.エリーロフ(E. Eriloff)に関しては、
本家バレエ・リュスの1910〜1911年のパリ・シーズンで「i. Erler」の名で
出演していたダンサーの名前が確認できます。
すでにご紹介した通り、E.エリーロフが上海バレエ・リュス結成期のバレエ・マスターで
あったことは確定的な事実です。
一方で、別の日本語資料には、上海バレエ・リュスの第一舞踊手として「イ.エリロフ」という名が現れます。
現段階では、E.エリーロフとイ.エリロフが同一人物なのかどうか断定することはできません。
ただし、この問題は単なる表記の揺れでは片づけられない重要さを持っています。
というのも、年齢的な整合性から見ると、1910〜11年のバレエ・リュスのパリ・シーズンでフランス語表記「i.Erler」の名で出演していたダンサーが、20数年後に上海でロシア語表記のE.エリーロフ(E.Eriloff)となった可能性が高いと考えられるからです。
逆に第一舞踊士として舞台に立つのは難しい年齢です。
もしこの推定が正しいとすれば、上海バレエ・リュスの内部には、単に「本場を知っている」人物がいたのではなく、実際にその時代のバレエ・リュスの舞台に身を置いていた人物が存在していたことになります。
もちろん、E.エリーロフとイ.エリロフの同一性は、今後さらに裏づけを積み上げるべき課題ですし、「i. Erler」との接続についても最終的な断定にはなお検証が必要です。
それでも、少なくとも上海バレエ・リュスには、E.エリーロフというバレエ・マスターがいて、
ディアギレフ時代のバレエ・リュスと身体的な系譜でつながる可能性が浮かび上がってきました。
上海バレエ・リュスは“直系”だったのか
さて、ここまで見てきて、最初の問いに戻ります。
上海バレエ・リュスは、本当にバレエ・リュスの直系だったのか。
上海バレエ・リュスとディアギレフ時代のバレエ・リュスの
直接的なつながりを示す、確定的な情報は得られませんでした。
一方で、ただ名前を借りただけの無関係な団体だった、
と片づけるのもしっくりきません。
ソコーリスキーには、アンナ・パブロワ一座を通じて初期バレエ・リュス作品へつながる回路が見えてきました。
E.エリーロフは結成期のバレエ・マスターとして確実に存在し、グロボワのように本場を知る批評家の高い評価もありました。
さらに「i. Erler」の問題まで視野に入れると、本場の身体の記憶が上海に持ち込まれていた可能性も浮かび上がってきます。
そう考えると、上海バレエ・リュスは、
本家のいわゆる「暖簾分け」ではない。
けれど、名前だけ借りた無関係の団体でもない。
このシリーズの本題は、ここで白黒をつけることはできません。
本当に見ていきたいのは、バレエ・リュスの何が受け継がれ、その影響が
どこへ流れていったのかです。
次回は、日本占領下の上海で、バレエ・リュス後期の活動を見ていきます。
その後は、戦後世界への影響、そして戦後中国への影響までたどっていくつもりです。
次回以降もお楽しみに!
最後までお読みいただき、有難うございます!
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【参考資料】
- 井口淳子(著)「亡命者たちの上海楽団」音楽之友社
- 山川三太(著)『「白鳥の湖」伝説』無明舎出版
- 星野幸代(著)「中国バレエ前史」名古屋大学学術機関リポジトリ
- 佐藤真知子(著)「近代舞踊黎明期におけるアレクサンドル・サハロフとデカダンス」舞踊学会
- 糟屋里美(著)「バレエ振付演出家小牧正英(1911-2006)研究」お茶の水女子大学院博士論文
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