バレエの歴史 18世紀フランス編 -4-

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今日は前回から引き続き、バレエ史の超重要人物ジャン=ジョルジュ・ノヴェールについてご紹介していきます。

デイヴィッド・ギャリック
「舞踊とバレエについての手紙」(1760)
マリー・アントワネット
晩年のノヴェール

ノヴェールはパリに生まれ、「舞踊の神」デュプレに師事しました。20歳の頃、怪我のためにダンサーとしてのキャリアは絶たれ、以降は振付家としてヨーロッパを転々とします。

大きな転機は、卓越した演技力でイギリス演劇界に近代的リアリズムをもたらしたシェイクスピア俳優、デイヴィッド・ギャリックにイギリスに招かれたことです。ノヴェールはギャリックとの親交を通じて演劇的なバレエ理論を完成させました。

その後、イギリスとフランスの間で植民地戦争がはじまり、ノヴェールはフランスへ帰国します。

そして1760年、自分のバレエ理論をまとめた「舞踊とバレエについての手紙」(以降「手紙」)を出版します。この著作の中で探求した演劇的なバレエを「バレエ・ダクシオン」と呼び、イタリア語、ドイツ語、英語に翻訳されてヨーロッパ中で読まれるベストセラーになりました。

これが今日のバレエのひな型となったわけです。

次にノヴェールが招かれたのが神聖ローマ帝国が治めるオーストリアです。当時はハプスブルク家出身の啓蒙専制君主、ヨーゼフ二世と母マリア・テレジアが共同統治しており、ノヴェールはマリア・テレジアには気に入られていて、娘のマリー・アントワネットにバレエを教えていました。一方、ヨーゼフ二世はドイツ語がベースの民族主義的な演劇を奨励していて折り合いが悪く、7年間の滞在を経てイタリアのミラノに活動拠点を移します。

ところがイタリアの滞在も長くは続きません。イタリア出身でヒルファーディングの弟子、ガスパノ・アンジョリーニが「手紙」は師匠の盗用だと訴えたのです。

ノヴェールの窮地を救ったのがオーストリアのハプスブルク家からフランスに嫁いでいたマリー・アントワネットです。夫のルイ16世は芸術に関心がなく、王妃の発言で念願だったパリ・オペラ座のバレエ・マスターに就任します。

この時期、ノヴェールはまだ20代だったモーツァルトにバレエ曲を依頼しているよ。

しかし、すでにガチガチの縦社会ができていたパリ・オペラ座にあって、王妃の一言でバレエ・マスターになったノヴェールは周囲の反発を招き、稽古のボイコットやあからさまな手抜きなど、さまざまな妨害を受けて就任から5年目の1781年、辞任に追い込まれます。

晩年は再びロンドンに戻り、バレエやオペラの創作を続けながら、「手紙」の増補・改訂を進めます。

1789年、フランス革命が勃発します。1793年、66歳になったノヴェールは、かつての庇護者マリー・アントワネットが断頭台の露と消えたことをロンドンの新聞で知ることになります。

まとめ

はい、今日はこれでおしまいです。

なかなか安住の地を見つけることができなかったノヴェールですが、晩年のイギリス滞在では、3代目「舞踊の神」オーギュスト・ヴェストリスに振り付るなど、次世代のスター育成に貢献しました。

いよいよ次回が18世紀フランス編のラストです。ノヴェールと同時代、あるいはその後に活躍した人物たちをご紹介します。

 


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