前回はnoteで掲載しました、「マイ・衝撃バレエ3選」の第2弾です。
今回取り上げるのは、モーリス・ベジャール*振付「ニジンスキー 神の道化」。

上のリンクから全編見られるんだけど、VHSを録画したような映像で
いつか消されちゃうかもしれないので、興味のある人はご自身の判断で
視聴してね。
はじめてこの作品を見たのは僕が大学生の頃。前回取り上げた「カルメン組曲」を知るより、少し前のことでした。映画はたくさん見ていたけど、将来やりたいこともハッキリ決めていない、宙ぶらりんな時期です。
当時の僕は、ニジンスキーのこともベジャール*のことも、主演のジョルジュ・ドン**のことも何も知りませんでした。もちろん、ドンがすでにこの世にいないことも知らないまま観ていました。コンテンポラリー・ダンスもモダンダンスもクラシックバレエも、当時の僕の中では全部ひとまとめに「バレエ」でした。
*モーリス・ベジャール:20世紀バレエ団(のちのベジャール・バレエ・ローザンヌ)を率いた振付家。バレエに演劇・宗教・哲学を持ち込み、モダンバレエに革新をもたらした。
**ジョルジュ・ドン:モーリス・ベジャールが自身の作品を託した、最も信頼の厚いミューズ。圧倒的な身体能力と表現力で、ベジャールの哲学を舞台上に体現し続けた20世紀後半の伝説的なダンサー。1992年、45歳でエイズによる合併症のため死去。
作品概要
『ニジンスキー 神の道化』は、実在の伝説的ダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーの生涯を題材に、モーリス・ベジャールが1971年に振付けた作品です。
主演のニジンスキー役を踊るのはジョルジュ・ドン。この作品は彼の出世作とも言われています。
構成は二部に分かれています。前半は、興行師ディアギレフ率いる〈バレエ・リュス〉のスターとして一世を風靡した栄光の時代。「牧神の午後」「シェエラザード」「ペトルーシュカ」など、ニジンスキー自身が踊った代表作の断片が、彼の分身のような形で舞台上に立ち現れます。後半は一転して、彼の狂気と死が描かれます。
実在のニジンスキーが最後に舞台に立った公演—彼自身が「神との結婚」と呼んだという—が着想源になっているそうです。
そしてこの作品最大の特徴が、ニジンスキー自身が晩年に綴った手記の朗読が、
ドンによって舞台上で行われるということでした。
手記を読み上げるジョルジュ・ドン
この作品で最も興味を惹かれたのは、「演劇性」でした。
僕はこの時はじめて、セリフのあるバレエを見たのです。
舞台の上で、ドンはニジンスキーの手記を読み上げます。
自分の才能と踊りへの情熱。ディアギレフへの恋慕。そして「見せ物」として消費されていくことへの苦悩と恨み。妻へのアンビバレントな思い。
そうしたニジンスキーの内面を、ドンが声にして読み上げながら、同時に踊りでも表現していきます。
内面の思いと踊りが、限りなく近接する。そうなると、踊りにセリフがあることが、むしろ必然のように思えてきます。言葉と身体は不可分で、同じものを最適な二つの回路で表現している感覚です。
入れ子になった関係性
のちに知ることになるのですが、ニジンスキーとディアギレフの間にあったのと同じような関係性が、ベジャールとジョルジュ・ドンの間にもあったようです。それをベジャールが、ドンに「ニジンスキーを踊らせる」という形で舞台に上げています。
実際、僕が見た番組では、フランソワーズ・モレシャンによるジョルジュ・ドンへのインタビューも収録されていて、そこでドン自身が「自分で書いたのではないか」と感じるほど強い一体感を覚えたと語っていました。
つまりこの作品は、二重の入れ子構造になっています。ニジンスキーの思いをドンが読み上げ、踊る。その構図自体が、ベジャールとドンの関係を映す鏡にもなっている。ニジンスキーの思いとドンの思いが、限りなく近接していく。個人と作品の境界線が限りなく曖昧なのです。

踊りは、神への捧げものである
それまで僕が知っていたバレエは、ダンサーの評価軸の中心はあくまで「踊り」であって、その人の個性や生い立ちではありませんでした。
「個性的な踊り」という表現はあくまで踊りの中の表現されるものであって、「個」が踊りよりも評価されることはないという認識です。
これはキリスト教的な考え方とも重なります。踊りは神への捧げものである、という概念。「神への捧げもの」にパーソナリティーは必要ありません。むしろ「個」を消す、あるいは踊りの中に包摂することで、はじめて踊りは純粋な捧げものになる。
そう考えると、「個」を滅して踊り手となるという在り方は、もしかしたら中空構造*を抱える日本人の感性と相性が良いのかもしれない、とも思います。中心に何もない、空洞を抱えたまま、そこに何かを憑依させる。能や神楽にも通じる発想のように感じます。
*中空構造:河合隼雄が提唱した日本文化の概念。中心に絶対的な価値を置かず「空(から)」にしておくことで、外からのものを受け入れ憑依させる柔軟な構造。

中空構造については、以前音声配信で詳しく扱っているので、興味がある人は
そちらをチェック!
けれど、踊りにはもう一つの顔がある
しかし『ニジンスキー 神の道化』は、その真逆を見せてくれた作品でした。
「言葉」と「踊り」は一人の身体から発せられるものであり、
踊り手の内面から表出するという点において、そこに境界線はないということ。
ニジンスキーという、突出した才能ゆえに、神格化され、
分離してしまった「内面」と「身体」の抱えるジレンマ。
それ自体をひとつのテーマにして作品を成立させることができるのは、
広い意味での「踊り」だったのです。
そのような作品を見た時、「バレエ」や「コンテンポラリーダンス」と、
言語的な境界線を引くことに、何の意味があるのでしょうか?
結局、僕が見ているのは「踊り」ではなく「人」
「カルメン組曲」で僕は、マヤ・プリセツカヤに時空を超えて画面の向こう側から見つめ返されることで、映像へ媒体が移された、バレエの新しい可能性に衝撃を受けました。
一方『ニジンスキー 神の道化』では、踊りそのものが本来持っている
可能性を知り、衝撃を受けました。
こうして振り返ってみると、結局僕が興味を持っているのは「踊り」そのものではなく、
「人」なんだと思います。
ニジンスキーという人、ジョルジュ・ドンという人、ベジャールという人。その人たちの間にあった感情や関係性が、踊りという形式を借りて舞台の上に立ち上がってくる。
その瞬間に、僕はいつも惹きつけられてきたのです。
これは大学生の頃から今でもずっと変わりません。
映像の仕事をするようになった今も、そこは変わっていないと思います。



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